楽園の鑑。

安全に、物を書いていられる場所がほしい。この思いは日に日に募る一方だ。これまで様々なSNSに手を出したが、己の思考・感情を、躊躇いなく発信できる場所は無かった。

 

十数年前、おそるおそるTwitterに手を出して以降、この世界に向けて言葉を発信する事は、確かに随分容易になった。ただ、そこで自分が物を書きやすいのは、誰かが見てくれているという安心感が背後にあった為でもある。見る人が誰もいない状況下で、独り言をぶつぶつ言うのは虚しい。

 

人の視線は厄介だ。思考や感情を言語化する時、彼らの視線は敵にも味方にもなる。他愛もない独り言を呟いて、それだけで「いいね」が付けば、「あ、誰かが認めてくれたんだ」と安心できる。けれど同時に、書いた自分の脳内では「何がウケたのか」「独り言として書いた内容のうち、どこに好感を持たれたのか」と、猛スピードで計算している。

 

道徳的な発言をして気に入られたら、今後もやはり道徳的に振る舞おうと考えるだろう。あるいは率直に意見を表明して評価されたなら、今後も自分の態度をはっきりさせ続けようと思うだろう。「いいね」が存在する事で、知らないうちに、過去の言動を反復するよう促されてしまっている。けれど「いいね」を獲得できるからこそ、「また書こう」と勇気を頂ける次第でもある。複雑だ。

 

視線が一種類だけならば、まだ対応もしやすい。視線の主の人間性や価値観等を分析し、それが気に入る情報のみをアウトプットすれば良いわけだから。しかしフォロワーが一人、また一人と増える度、言葉選びの難易度は段違いに上がっていく。ある人は、私の穏やかな物言いを気に入ったかもしれない。またある人は、私の愚直さを気に入ったかもしれない。無論、どちらも私のアイデンティティの一側面ではあるだろう。けれどもし、前者の要素ばかりが前面に出る投稿を続ければ、愚直さ好きのフォロワーは離れてしまうかもしれない。また逆に、歯に衣着せぬ投稿ばかりが続いたら、穏やかさ好きのフォロワーが離れてしまうかもしれない。どちらにも嫌われないよう留意するうち、だんだん無難な事しか書けなくなってしまうのだ。

 

こうした煩悶をSNSで洩らしたら、気の利いた人がいろいろアドバイスしてくれる。曰く「そりゃ皆に好かれようとしたって限界があるよ。分かる人にだけ分かればいい」。曰く「八方美人を続けていたら、自分を見失ってしまうんじゃない?」。いずれももっともなご意見だと思う。けれど私には自分の軸になるような価値観がほとんど無いのだ。人に評価されるか否かで、自分の取るべき行動が変わってしまう。これは私の言動のベースとなる、自己肯定感の低さに起因するのかもしれない。

 

たぶん小学生の頃からだ。ずっと自分は、「普通」に振る舞う事ができなかった。正しい雑談の仕方が分からないので、バラエティ番組やお笑いを見て、話の盛り上げ方を学んでみた。高校時代、同級生に「今朝寒いね」と言われたら「え、暑くない?」と応答した。逆に「今朝ちょっと暑いね」と言われたら「え、寒くない?」とレスポンスした。わざと呼吸をずらす事が、笑いには必要であると思ったのだ。しかし実際にこの戦略を実行に移してみたら、「なんで毎回、反対の事言うの? お前、変態だな」と侮辱された。なぜ変態だと見なされるのか、分からなかった。しかし「変態だ」という評価を内面化する事は危険であると予感したので、私は感情を麻痺させ顔を硬直させて、なんとかこの場を凌いだように記憶している(これが「凌げた」と言えるのか?)。

 

今日、村田沙耶香の小説『コンビニ人間』を読み進めつつ、私は過去に何度も繰り返し味わってきた「普通とズレる気まずさ」を、ありありと思い出した。それは家族を含め周囲のあらゆる人々から「異端視」される主人公・古倉さんの、屈辱に耐える戦いの記録でもあったと思う。

 

古倉さんは、常識に囚われ合理性を欠いた発言を繰り返す人間たちを、物を見るような目で淡々と観察する。そして鋭い五感で自分の身振りにコピペして、「普通」の人間らしさを演出するのだ。妹からの助言を参考にして、ある程度までは軽侮の視線を回避する事に成功するが、やがて辻褄合わせにも限界が来る。そこで彼女は白羽さん(補充要員としてコンビニでバイトを始めたものの、過激な発言と問題行動の多さが理由ですぐ辞めさせられた男性)と同棲する事で、人々の質問攻めを一時的に回避する。だが、それも長くは続かない。古倉さんの心身は、もうコンビニ店員として最適化されてしまっている。というよりも、コンビニ店員である事だけが、彼女の存在意義になっているのだ。

 

白羽さんも古倉さん同様に、世間が押し付けてくるコモンセンスの重圧に、悲鳴を上げる者の一人だった。けれど彼は、憎悪や憤懣を四六時中垂れ流しつつ、常識と戦う事を諦めている。だから結局、古倉さんを「世間」や「普通」へ連れ戻すよう働きかけてくるのだが、彼女の本能がそれを許容できない。お客様として偶然入ったコンビニが、彼女を強烈なノスタルジーで包み込む。

 

私は数年前にも、この小説を読んだ事がある。当時はラストシーンを、ハッピーエンドともバッドエンドとも言い切れない(見方によって解釈の割れる)「メリーバッド」と受け止めた。しかし今改めて読んでみて、私はこれは「ハッピーエンド」と解釈せずにいられなかった。だって、これ以外の選択肢が主人公にあっただろうか。周囲の誰が何と言おうと、古倉さんは自身にとってのセーフティゾーンを奪還したのだ。

 

ここ数年間、私の経験した出来事は、面白いほど古倉さんの生き様をなぞっている。それは「常識に屈するか? それとも自分のホメオスタシスを優先するか?」という問いの形を成している。はじめ社会のシステムに身を委ね、自分の人生を再構築しようと試みた。でも何度「社会に適応しよう」と努力しても、私の本能がそれを拒絶する。古倉さんがコンビニという場にこだわったように、私にも自分にとっての理想郷が何処かにあるかもしれない。それは多分、物を書くという事なのだ。だからこそ、自分のポテンシャルを充分に発揮できる環境を整えていく必要がある。

 

今回ブログを始めたのは、そうした試行錯誤の一環である。

GRAVITY、読書、MBTI。

自分軸を確保する為、久々にブログを書き始める。

 

普段はGRAVITYを徘徊している。あそこはピンからキリまで様々な言葉が大量に流れていくから、それほど気を遣わずに呟けるので気が楽だった。とはいえ、フォロー関係が生まれてくると、どうしても人の視線を気にしがちになる。「こんな事を書いたら不愉快に思われるだろう」「あんな事を書いたら軽蔑されるかもしれない」……様々な不安が浮かんでは消え、浮かんでは消え、気付けば無難な内容の投稿しかできなくなっている自分がいる。知らず知らず、「書いてはいけない事」を考えないようになっているのだ。

 

こんなふうに厳しい自己検閲が働いている状態では、自分の書きたい事をだんだん書けなくなってくる。自分が純粋に考えたい問題について考えられなくなってくる。けれど恥ずかしながら今の所、GRAVITYを手放す事は難しそうだ。もう辞めようと思い、何度かアンストしてみた事もあるが、GRAVITY無しの日々を過ごしていると、なぜか心がザワザワしてくる。SNS依存というやつだろう。仕方ない。仕方ないので、「GRAVITYは脳のデフラグ&ディスククリーンアップ用」「ブログはブレーンストーミング用」という事で、棲み分けを図る事にしよう。

 

GRAVITYは沢山機能がついているので、トピックごとに投稿しやすい。読んだ本の感想は、「読書の星」という場所に書き込んでいた。反応はそこそこ。体質上、継続的に投稿し続ける事が難しいので、「読書家」として注目される事があまり無いのも原因の一つであるかもしれない。いいねが集まる人は、やたら集まる。私の投稿は基本一桁。こうして人と比べてしまうのは、あまり良くない兆候だ。自分の書きたい事を書けば良いのだ。

 

とは思うものの、渾身の力を込めて書いた長文が、いいね0だとやはり辛い。いま自分の中で存在感を増している『八本脚の蝶』や『醒めてみれば空耳』に関する投稿をしても、反応は皆無に近いのが辛い。今日は試みに、村田沙耶香さんの小説『コンビニ人間』と紐付ける形で、『八本脚の蝶』の一節を紹介してみた。両者には問題意識の上で通じる部分があるように思われるから。さすが芥川賞受賞作なだけあって、反応はいい。だが、知名度の高さゆえ反応があったのかと考えると、少し憂鬱な気分に襲われもした。

 

私は良くも悪くも、人の視線を意識し過ぎる。あまのじゃくな性格だから、流行に乗るのは嫌なくせして、人に嫌われるのが怖いから厄介だ。自分の卑屈さが嫌になる。と同時に、卑屈でいられない中途半端さも嫌になる。いっそ自分の世界観を最優先に考えて、「人の事などどうでもいい、俺は我が道を行くのだ」と豪語できたら良かったのに。もしくは逆に、周囲のあらゆる人に配慮しながら、無難な事だけを発信できる器用な頭脳を持っていれば。……考えても仕方ない。仕方ないので、アンビバレントな性質を携えたまま、文章を書くのに集中する。

 

GRAVITYを始める際は、MBTIの簡易診断を行う事が可能である。最初に取り組んだ12問のテストでは論理学者INTP)に、次に取り組んだ88問のテストでは擁護者ISFJ)に、三度目に取り組んだ100問版では、ずいぶん久しぶりに仲介者INFP)の結果が出た。普段は提唱者INFJ)か建築家INTJ)になる事の多い私であるが、こと最近は、アイデンティティの乱れが大きいようだ。

 

「INFJ」と「INTJ」に関しては、以前詳しい解説にざっと目を通してみた記憶がある。体感として、人への共感性が高まっている状態では「INFJ」になりやすく、目的達成への意識が強まっている状態では「INTJ」になりやすかった。今はどちらでも無いのだろうか。いや、共感性自体は維持されたまま、計画性が低下したのか。確かに今の生活において、ルーティンワークはほとんど無い。その場その場で気の向く本やブログを読んでいる。これが診断結果に反映された可能性はあるかもしれない。

 

さて今回は、GRAVITYと読書とMBTIの話題について、思う所を漠然と書き連ねてみた。個々の話題に関しては、また機会があれば掘り下げる事もあるだろう。こうして自分の課題を自ら設定し宣言できるのは、ブログ特有の強みかもしれない(もちろん原理的にはSNSで宣言する事も可能だが、人の視線に引っ張られやすい私には難しいのだ)。今後自分の問題意識を深堀りしていく場合には、ブログの力を借りてみようか。